4. 信じるのか、信じるためにがんばるのか?


   イエスを信じるということは、ただ口で信じるというのとは違いがあります。善行だけで信仰を立証しようとする人々の努力は、聖書が言っている信仰とはかなりかけ離れたものです。


 それで、この聖書を通して、私たちが信じていることと、聖書が教えている信仰の本質について考えてみようと思います。神を信じているというたくさんの人々に、信じているのか、あるいは信じるためにがんばっているのかという質問を投げかけてみたいのです。‘信仰’ということばに力いっぱいがんばるということをひっつけておいたので、たくさんの人々は信仰というものを難しく考えます。自分自身をしばりつけること、まるで重い荷物でも担ぐかのように思っているのです。


 ‘信仰’とは、あるひとつの事実に自分を完全に任せてしまうことを言います。これはどんな行動によっても、努力によっても、できない時に生じる姿勢です。自動車に乗る時、車に全く故障がなく、運転手が酒に酔った人でなければ安心して乗ります。いつどこで交通事故に遭うかわかりませんが、いずれにせよ自分を任せて行くのです。高い空を飛びながら、‘今、私が信じているのは飛行機の機体とパイロットしかいない’と考えてみました。このように信じるということは完全に任せるということです。飛行機の中でがんばったところで、もっと楽にもっと安全に行けるわけではありません。いくら一生懸命しても無駄です。頭から足の先まですべて任せておいて、じっとしていれば勝手に目的地まで行くのです。


 私たちが神を信じる信仰においてもそうです。不安であったり落ち着かなかったりするのか、あるいは神の前にすべてを任せて生きているのか?聖書には‘一生懸命がんばれ’というお願いのみことばはありません。信じるということばは、今も昔もこれからも、疑うことなく‘任せておく’、‘信頼する’、‘頼る’という意味です。イエスを信じる人が使う‘信じる’ということばと、イエスを信じない人が使う‘信じる’ということばは、ふたつとも同じ意味を持っています。


 幼い子供は成長する間、ご飯を食べさせ、服を着せてくれる母親に何の心配もなく自分を任せて生きます。自分には何の能力もなく、ただ自分の両親にすべての能力があります。神を信じる信仰において、私たちがその幼い子供以上に、神の前にすべてを任せないでは信仰が何なのかわかるのは難しいのです。