“あなたが正しくても、あなたは神に何を与ええようか。神は、あなたの手から何を受けられるだろうか。あなたの悪は、ただ、あなたのような人間に、あなたの正しさは、ただ、人の子に、かかわりを持つだけだ。”(ヨブ記35章7節、8節)
人間は一生懸命自分の義を積み上げていきますが、その義は神とは何の関係もありません。実際、イエスの時代の大多数のユダヤ人たちも、イエスを殺すことが神にもっと忠実に仕えることだと思っていたことでしょう。
“兄弟たち。私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われることです。私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。”(ローマ人への手紙10章1節~3節)
彼らが神に対して熱心ではありますが、その熱心さのために神の義は考えず、自分の義を立てているので、神の義に従わなかったというみことばです。人間の義を立ててみると神の義とは関係がない行動をするようになるのです。教会に長い間通ったからといって、また教会で地位を持っているからといって、神は満足されはしません。そんなことで満足される神なら、はじめからそんな物を要求されたはずです。しかし、聖書を隅から隅まで調べてもそんな物を要求するみことばはどこにもありません。
“義人はいない。ひとりもいない。”(ローマ人への手紙3章10節)というみことばは、神の前での人間の実情を最もよく表しています。もちろん人間の目には人間の義がたいしたもののように見えます。しかし、神がご覧になるに人間の義は汚れた服のようなものなのです。
“私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。私たちはみな、木の葉のように枯れ、私たちの咎は風のように私たちを吹き上げます。”(イザヤ書64章6節)
神の前にふさわしい人となるためには、神が人のために準備して下さった礼服を着なければなりません。
“ところで、王が客を見ようとしてはいって来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた。そこで、王は言った。『あなたは、どうして礼服を着ないで、ここにはいって来たのですか。』しかし、彼は黙っていた。そこで、王はしもべたちに、『あれの手足を縛って、外の暗やみに放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。』と言った。”(マタイの福音書22章11節~13節まで)
このみことばに見られるように、神の礼服を着ていない人は天国の祝宴に参加できません。それでは礼服とは何でしょうか?ある人々は自分たちで作った礼服を自慢げに着て歩き回っています。幼い頃から日曜学校に通ったという主張も礼服になり得るだろうし、母胎信仰者であったという主張も礼服になり得るでしょう。
しかし彼らに神は“わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。”(マタイの福音書7章23節)と言われるでしょう。神が準備されたまことの礼服は神の義です。人々はすべて、神の義に預かることでのみ、天国に行くことができます。
イエスと共に十字架に掛けられた二人の強盗の例を見てみましょう。ふたりの強盗のうちひとりは“あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。”とイエスをののしりました。
しかし、もうひとりの強盗は“おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。”とたしなめました。そうしてイエスに“あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。”とお願いしました。イエスは“あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。”と言われました。(ルカの福音書23章参照)彼は十字架につけられて死んでいくその瞬間に自分が犯した罪の赦しを受けたのです。
彼は礼拝堂に行って祈りをしたこともなく、復興会に参加したこともありませんでしたが、自分の心がイエスを省みる瞬間、救いを受けました。死の門前で神が準備して下さった礼服を着たのです。あなたはその礼服を着ましたか?
人間は一生懸命自分の義を積み上げていきますが、その義は神とは何の関係もありません。実際、イエスの時代の大多数のユダヤ人たちも、イエスを殺すことが神にもっと忠実に仕えることだと思っていたことでしょう。
彼らが神に対して熱心ではありますが、その熱心さのために神の義は考えず、自分の義を立てているので、神の義に従わなかったというみことばです。人間の義を立ててみると神の義とは関係がない行動をするようになるのです。教会に長い間通ったからといって、また教会で地位を持っているからといって、神は満足されはしません。そんなことで満足される神なら、はじめからそんな物を要求されたはずです。しかし、聖書を隅から隅まで調べてもそんな物を要求するみことばはどこにもありません。
“義人はいない。ひとりもいない。”(ローマ人への手紙3章10節)というみことばは、神の前での人間の実情を最もよく表しています。もちろん人間の目には人間の義がたいしたもののように見えます。しかし、神がご覧になるに人間の義は汚れた服のようなものなのです。
神の前にふさわしい人となるためには、神が人のために準備して下さった礼服を着なければなりません。
このみことばに見られるように、神の礼服を着ていない人は天国の祝宴に参加できません。それでは礼服とは何でしょうか?ある人々は自分たちで作った礼服を自慢げに着て歩き回っています。幼い頃から日曜学校に通ったという主張も礼服になり得るだろうし、母胎信仰者であったという主張も礼服になり得るでしょう。
しかし彼らに神は“わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。”(マタイの福音書7章23節)と言われるでしょう。神が準備されたまことの礼服は神の義です。人々はすべて、神の義に預かることでのみ、天国に行くことができます。
イエスと共に十字架に掛けられた二人の強盗の例を見てみましょう。ふたりの強盗のうちひとりは“あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。”とイエスをののしりました。
しかし、もうひとりの強盗は“おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。”とたしなめました。そうしてイエスに“あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。”とお願いしました。イエスは“あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。”と言われました。(ルカの福音書23章参照)彼は十字架につけられて死んでいくその瞬間に自分が犯した罪の赦しを受けたのです。
彼は礼拝堂に行って祈りをしたこともなく、復興会に参加したこともありませんでしたが、自分の心がイエスを省みる瞬間、救いを受けました。死の門前で神が準備して下さった礼服を着たのです。あなたはその礼服を着ましたか?